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邪馬台国発見 第9部「卑弥呼の墓」

第9部では、卑弥呼が葬られた場所が透視される

透視結果

★卑弥呼は冬の寒い日、肺炎を悪化させ、「冬の居城」で死去。居城の隣に墓が築かれた。

★卑弥呼の墓は、前方後円墳。現在は安徳天皇の陵墓参考地に指定されている豊田湖畔の墳墓。

★卑弥呼の遺体は、陵墓参考地とされる墳墓の下、「石を切り抜いたものの中」にある。4方向に武人の陶像を配し、さまざまな副葬物と共に葬られた。

 

魏志倭人伝は、卑弥呼が死んだこと、人々が直径百余歩の塚を築いて葬ったことを記しているが、死んだ理由や墓の場所には言及がない。その直前に「南方の狗奴国には男王がいて、卑弥呼に服従しなかった」と記していることから、卑弥呼は狗奴国との戦闘で亡くなったとする説、敗戦の責任を負わされ殺されたとする説などがある。マクモニーグル氏の透視では死因は肺炎で、自然死のようだ。高齢のため風邪をこじらせたのだろう。

墓の場所をめぐっても諸説あり、これまで奈良県桜井市の前方後円墳「箸墓古墳」が有力とされてきた。しかし、マクモニーグル氏が透視によって指し示したのは、またしても意外な場所だった。

 

著書『謎の邪馬台国を発見』によると、「卑弥呼の墓の位置」は最初に依頼したターゲットである。その結果は2007年4月に届いた。

「林か野原に囲まれた小さなマウンド状になった場所。小さなグループか部族の人々が、単一個人~最初は男で後に女性(彼の妻)~の指導の下、防御のために一緒に暮らしていた場所。それは非常に昔のことで、おそらく西暦222年~252年。このエリアは湖の東の端にあった。その遺跡は1800年代の終わりか1900年代の初め頃まで、居住用の大きな建物の間に横たわって実在していたが、何らかの事情で片付けられてしまった」

マクモニーグル氏は、ターゲットについてこう透視したという。どうやら「冬の居城」のことを言っているようだ。彼は地図を描いてターゲットの位置を示したが、そこには「丘の上の冬の居城」のすぐ近くに、「シャーマン女性の埋葬古墳」が書かれていた。

調査チームは、地図を頼りに、特徴の似ている地形を探し、 山口県下関市豊田町にたどり着いた。「冬の居城」があったとされる丘から数百メートルしか離れていない湖のほとり、「安徳天皇西市陵墓参考地」に指定されている場所だった。

著者の調査によれば、その一帯には、王の居城跡を意味する「王居址」(おおいし)という地名がついている。また、陵墓参考地は古来より「丸尾山」と呼ばれており、墓が前方後円墳であるとの言い伝えもあるという。かつての墳丘部はもっと丸かったが、何らかの事情で両側面が削られてしまったという。この墓を第10代崇神天皇の皇子の古墳とする伝承もあるそうだ。

1955年に木屋川ダムが完成するまでは、陵墓参考地近くの水位はもっと低かったようだ。マクモニーグル氏も「卑弥呼の時代にあった村が今は湖底に沈んでいる」と透視している。拝所の前の碑文によると、50メートル先の湖底からは古刀が数本出土しているそうだが、詳しいことは分からない。

2007年10月に来日したマクモニーグル氏はこの場所を視察し、「ここに間違いない。彼女はこのマウンドの中に今も眠っている」と語った。

宮内庁が管理する陵墓参考地のため立ち入ることはできないが、現地調査では施錠された門の手前から安徳陵へ続く石段を確認。透視によると、石段や石垣は墓よりずっと新しい時代に造られたものだが、それでも1000年は前のものだという。おそらく安徳天皇の陵墓として整備されたのだろう。

第81代安徳天皇(1178年~1185年)は、高倉天皇の皇子で、母は平清盛の娘。3歳で即位したが、後鳥羽天皇に追われ、平家の従者と共に西国を転々。1185年、壇ノ浦の合戦で海中に没し、崩御したとされる。一方で、密かに脱出して生き延びたという伝承もあり、全国に十数か所、「安徳天皇陵」とされる遺跡がある。

山口県下関市豊田町地吉(じよし)に伝わる伝承によれば、壇ノ浦合戦の後、三種の神器を懸命に探す源義経が、漁師や海女を動員して大捜索を実施した。すると、三隅町沢江の漁師の底引き網に天皇の亡骸(なきがら)が掛かった。源氏方は亡骸を棺に移して運んだが、豊田町地吉でカゴが動かなくなったため、この地に埋葬したということだ。

マクモニーグル氏の透視結果に興味を持った山口県在住の方が、安徳陵参考地付近の様子をブログで紹介されている。「爽やかな風吹く心地よい場所」だったと、当地を訪ねた感想をつづっている。

『謎の邪馬台国を発見』では、著者による追加調査の結果も付記されている。安徳天皇陵ではないかと言われているのは、正確には丸尾山そのものではなく、この山の丸い部分の山頂だという。

であるなら、壇ノ浦合戦で敗れた安徳天皇の遺体が、もともとこの地に存在した前方後円墳の後円部に埋葬された可能性もあるのではないか、と著者は指摘している。

 

透視はマクモニーグル氏の帰国後も続けられた。

2007年12月には、「卑弥呼の墓の中にあるもの」の透視結果が届いた。マクモニーグル氏が捉えたイメージは、5つの巨石でつくられた地下室で、そこには「老齢だが、美しかった女性」が葬られている。亡くなった年齢は71~73歳だという。

衣服は白く、赤、青、金で飾られている。白は空気、赤は大地、青は水、金は太陽という4つのドラゴンを象徴している。卑弥呼はこの4つの要素を自分の持つ超自然的な力の源泉だと呼んでいた。

卑弥呼はガラスと水晶のビーズで出来たネックレス、ガラス玉の髪飾りを身に付け、花を敷き詰めた「編んだ稲のマット」の上に横たえられている。衣服は柔らかい動物の皮で、真珠の貝殻で飾られたベルトによって固定されていた。馬の皮で出来たブーツをはいていた。

遺体の横には、卑弥呼が所有していた長刀2本と短刀1本が置かれていた。著者はこの長刀2本は、魏の皇帝から下賜された五尺刀ではないかと推測する。周囲には直径6~10センチの比較的小さな鏡が40枚以上置かれている。いくつかは明らかに壊れたり、欠けたりしている。

石室は二重になっていて、内側の部屋に卑弥呼が埋葬されている。石の継ぎ目や石室の内壁は漆喰で塗り固められていた。

内側の石室の四隅(北東、北西、南東、南西)には高さ約75センチの武人像が安置され、それぞれの足もとに戦闘用の鉄剣が添えられている。外側の石室にも4方向(東西南北)に武人像と鉄剣が置かれている。

卑弥呼の足もとには3つの大きな壺があり、人骨が詰められていた。おそらく先に亡くなった親戚で、卑弥呼にとって重要な人物だったと思われる。外側の石室には人骨の詰められた6つの壺があり、それらは卑弥呼の家臣だったが、彼女より前に亡くなっており「殉死」ではないようだ。魏志倭人伝は百余人の奴卑が殉葬されたと伝えているが、透視では殉葬者は見えなかった。

遺骨や埋葬物などは、湿気と酸性土壌のせいでほとんどが失われている。今も残っているのは断片や痕跡程度で、量も多くないという。

 

それにしても、もし卑弥呼が長門に生まれ育ち、女王になってからも冬は豊田湖畔の居城に暮らし、その近くに埋葬されたのだとして、そうした史実をうかがわせる伝承が地元にまったく残っていないのは、やや不自然な気がしないでもない。北部九州や出雲での出来事が神話化され、地名とともに語り継がれたのとは大違いだ。

しかし、考えてみれば、こんにち我々が卑弥呼の存在を知っているのは、一にも二にも魏志倭人伝によるところが大きい。倭人伝のいう「女王卑弥呼」を、日本書紀の編者は神功皇后のことだと解釈し、 江戸時代の国学者、本居宣長は「倭王の名をかたった熊襲の女酋長」だと考えた。卑弥呼に関する記憶は、年月を重ねて風化してしまっていたのだ。

長門市には、風変わりな「伝説」が残っている。唐の時代の王妃である楊貴妃(719年-756年)が中国から長門に流れ着き、当地でしばらく暮らしたのちに息を引き取った、というものだ。「楊貴妃の里」として整備された場所は、長門市油谷(ゆや)。卑弥呼の生まれた町からほど近い向津具(むかつく)半島である。

人々の記憶から卑弥呼が消えても、「ある高貴な女性がかつて長門に暮らし、この地で没したらしい」という伝承だけは、かろうじて残ったのだろう。

 

マクモニーグル氏は2007年10月の来日調査で、卑弥呼の墓の有力候補とされてきた箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)を視察。「この古墳はターゲットのものではない。もっと古い」と透視した。西暦180~190年頃の墓で、5人が埋葬されているという。

透視では卑弥呼が生まれたのは西暦195~205年。箸墓の被葬者は卑弥呼が生まれる前に奈良にいた有力者だと考えられる。

魏志倭人伝は、卑弥呼が女王に擁立される前、倭国は「もともと男性を王としていた」と記している。後漢書東夷伝も安帝の永初元年(西暦107年)に「倭国王帥升」が皇帝の拝謁を申し出たと伝えている。箸墓に埋葬されたのが邪馬台国以前の倭国王、または倭国内の有力な王である可能性も否定できない。

ちなみに、マクモニーグル氏は当初、「ターゲットの墓」は奈良県広陵町の巣山古墳であると透視していた。

ところが来日直前の2007年9月、この結果に「致命的な間違いがあった」と調査チームに連絡してきた。卑弥呼の時代のすぐ後に、卑弥呼の「いとこか姪」(のちに弟の娘、つまり姪だったと特定される)が卑弥呼同様に連合国のリーダーになったが、その2人の女王の時代が近いうえに、同じ場所に住んだので、2人を同一人物と誤認してしまったという。

そして巣山古墳は、「卑弥呼の後の時代に女王となった者の墓」に訂正された。

 

マクモニーグル氏の透視で最も印象的な結果は、卑弥呼の出身地と墓の場所だろう。長年の邪馬台国論争でも、山口県は全くと言っていいほど触れられない空白地だった。

もしマクモニーグル氏が何らかの「不正」を働いて、透視ターゲットに関する情報をあらかじめ調査していたとしたら、まず「山口」という地名は出てこなかったのではなかろうか。

とはいえ、最新の史学、考古学では卑弥呼と山口県を結び付ける論考もあるのかもしれない。そう思って調べてみると、2011年6月に出版された『徹底検証 ここまでわかった!邪馬台国』(歴史読本編集部編、新人物文庫)に興味深い記事を見けた。その中で著名な考古学者(森 浩一氏)が、こんなことを語っているのだ。

「僕は、どちらかというと北部九州勢力の東遷説です。まずヤマトに移り、また千何百年か経ってから京都からの東京遷都が行われたわけでしょう。そして東京遷都の原動力になったのは、薩摩や長州です。長門は北部九州の隣接地で共通の文化圏にあった。このように歴史全体の大きな流れを眺めると面白いですね」

作家の黒岩重吾氏も、『古代史を読み直す』(PHP文庫、2004年)の中で、次のように述べている。「山口県あたりの遺跡からも、吉野ヶ里から出たような銅剣、有柄銅剣が出ているわけです。だから、長門あたりも、ひょっとすると邪馬台国連合の中に入っていたかもわからない。邪馬台国連合は北九州だけだとはせずに、もう少し広く見たほうがいい」

『徹底検証 ここまでわかった!邪馬台国』では、邪馬台国畿内説、九州説の双方があらためて自説の優位性を訴えているのだが、このうち九州説論者(高島忠平氏)は「卑弥呼の墓は、必ずしも邪馬台国にあるとはいえない」と前置きし、次のように指摘する。

「卑弥呼は三十国によって共立された王であり、霊力に秀でた巫女で、三十国のどこかの国の出身である。よってその出身地が邪馬台国である確率は三十分の一である。死後埋葬されたとすれば、古代の大王がそうであるように、出自の国である」

高島氏はここで、福岡県糸島市の「平原王墓」が卑弥呼の墓である可能性が高いと結論しているのだが、その理屈は「卑弥呼の墓は邪馬台国のあった奈良ではなく、出身地の山口にある」とするマクモニーグル氏の透視結果に限りなく近い。

マクモニーグル氏の示した「仮説」が、最近の研究者の言辞と照らしても矛盾しない内容であることは確かなようだ。

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