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邪馬台国発見 第5部「女王卑弥呼」

第5部では、卑弥呼が女王に就任するに至った経緯が明かされる

透視結果

★卑弥呼が女王になる直前、倭国は戦乱の時代にあった。

★列島西部ではヤマト部族を中心に初期ヤマト連合が出来上がっていた。

◎北部九州と長門周辺

 →卑弥呼の父の勢力範囲

◎熊本南部~鹿児島

 →卑弥呼の父の兄弟の勢力範囲

◎松江周辺

→卑弥呼の父の伯父(卑弥呼の大伯父)の勢力範囲

◎山口と島根と愛媛

 →卑弥呼の母の兄弟の勢力範囲

★初期ヤマト連合は、畿内の勢力と敵対しており、両者の間で大きな戦争が起きた。

★卑弥呼の父(長門の王)は畿内の勢力のことをよく知っていた。彼とその兄弟(鹿児島の王)は平和を望んだ。卑弥呼の父は、畿内の勢力に「もし卑弥呼を偉大なシャーマンにすれば平和を守れるか」と訊いた。答えはイエスだった。

★一方、強大な力を持つ大伯父(出雲の王)は平和を望まなかった。彼は日本海沿岸で影響力を伸ばそうと考えていたが、畿内はどうでもよかった。

★九州の東側(大分、宮崎)はヤマト部族と無関係な地域。おそらく野蛮な人々が住んでいた。

★卑弥呼は山口県萩市の祭祀場で修行を積み、偉大なシャーマンとなった。

卑弥呼の大伯父(出雲の王)は、卑弥呼の能力を見極め、畿内の勢力に対し、卑弥呼を「共通の王」とするよう迫った。

★卑弥呼は畿内に移り、統治を始めた。卑弥呼が移動したことで「ヤマト」の名前も畿内に移った。西日本の大部分を含む「女王国連合」と、その盟主「ヤマト国」が畿内に誕生した。

★卑弥呼は女王になった後も、冬は山口に帰った。夏は畿内、冬は山口と、2カ所の居城を行き来しながら統治を行った。夏の居城は奈良県宇陀市榛原(はいばら)の鳥見山、冬の居城は山口県下関市豊田町の豊田湖畔。移動は主に陸路。卑弥呼の行列の見学は当時最大のイベントだった。

★卑弥呼は女王になった後も出雲の大伯父を訪ねた。

 

魏志倭人伝の伝えるところでは、倭国はもともと男性を王としていたものの、70~80年を経て内乱が続いたため、卑弥呼を女王として「共立」したという。マクモニーグル氏の透視はこの記述を裏付けるものだ。

著書『謎の邪馬台国を発見』によれば、卑弥呼の人物像に関する透視は、3回目の依頼だった。 「ターゲットの人物はどのような場所に住んでいたか?」

「ターゲットの人物の出身はどこか?」 この質問に対するマクモニーグル氏の回答は、すぐに届いたという。

それによると、卑弥呼は夏と冬で別々の場所に居住していた。彼女は一つの部族のリーダーではなく、数多くの部族連合のリーダーだった。

マクモニーグル氏の新たな透視によると、卑弥呼は山口県出身で、山口に住んでいた頃から偉大なシャーマンだった。多くの者が彼女のアドバイスと知恵を求めてきた。

あるとき北方部族の代表である10部族の使者が卑弥呼のもとを訪れた。卑弥呼は彼らに「もし、北方における最有力の3部族が、意見の相違を平和に解決できなければ、地上は暗闇に覆われ、多くの者が死ぬ」と予言した。

10部族は卑弥呼を連れ帰り、彼らのリーダーとして部族連合を統治させることにした。10部族の代表からなる評議会が開かれ、3つの最有力部族のうちの1つが所有する領地内に卑弥呼が引っ越し、そこから統治を行うことを決定した。

透視によると、卑弥呼が最初に連れて行かれた場所は大阪だった。その後、間もなくコメの生産に適した奈良へと移った。統治の開始は西暦218年ごろで、彼女の部族の始まりから数えて9代目か10代目に当たる。

著書では、マクモニーグル氏が日本地図上に示したという各部族の支配地域も掲載されている。

わかりずらいが、エリアごとに整理すると、おおむねこのような勢力配置になりそうだ。

また、卑弥呼が統治した範囲も地図で示されており、それによると彼女が女王に擁立された時点(西暦218年)の統治範囲は、琵琶湖の南側から大阪、奈良(南部を含む)にとどまっている。

やがて230年頃までには琵琶湖の北側の滋賀や京都、奈良以南の和歌山や三重へ拡大して関西全域を支配下に置いた。卑弥呼が亡くなる250年頃には、九州と四国の全土を含む西日本全域を統治していたようだ。

月刊『ムー』の記事は、次のように総括している。「『魏志倭人伝』に女王国の首都として出てくる、狭義での邪馬台国は奈良に間違いないだろうが、女王国連合という広義での邪馬台国は、西日本全域を指すとも考えられる」(361号2010年12月)

魏志倭人伝には、「倭国」「女王国」「邪馬台国」という3つの表現が登場する。このうち邪馬台国については明確に「女王の都とする場所」と説明されている。想像するに、「倭国」とは東日本をも含む土地の呼び名で、「女王国」は西日本を統治する連邦の呼称、「邪馬台国」は連邦の中核をなす国家のことを言っているのではないか。女王国をかつてのソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)に例えるならば、邪馬台国はその首都が置かれた「ロシア共和国」に当たるだろう。

このサイトでは便宜上、

▽卑弥呼が女王になる前の緩やかな部族連合=「初期ヤマト連合」

▽卑弥呼が直接統治する畿内の王国=「邪馬台国」

▽邪馬台国を中心とする西日本の連邦国家=「連合王国」

と呼び分けることにしたい。

マクモニーグル氏によると、連合王国を構成する多くの部族は、通常、離れた別々の場所で生活していた。ただ、年に1回、秋の収穫の直後には、卑弥呼の統治する「北方の神殿」に集まった。冬に続く新年の豊作を神に祈るため、卑弥呼に対して貢ぎ物が捧げられたという。

しかし、「卑弥呼に会うと、どんな秘密も知られてしまう」という噂が広まり、卑弥呼との面会を求める者は少なくなっていったという。『謎の邪馬台国を発見』の著者は、魏志倭人伝にある「王となってからは朝見する者少なく」という記述との一致を指摘している。想像するに、卑弥呼はスパイを使って面会相手の情報をあらかじめ仕入れていたのではないか。相手がシラを切ると、隠している事実を突き付けて困らせたのだろう。

なお、倭人伝には「一人の男性が卑弥呼の食事の世話をし、彼女の言葉を人々に伝えるため出入りしている」との記述もあるが、マクモニーグル氏の透視では、これに該当する男性は登場しない。

 

女王になった後も、卑弥呼は冬は故郷山口に帰った。『邪馬台国発見 後編 』では、奈良~山口間の移動ルートが示されている。海路は海賊や悪天候などのリスクがあるため、移動には原則として陸路を使った。経由地のうち奈良、大阪、姫路、岡山、福山、三原、広島、安佐、タグチ(不明)、益田には、規模の大きな村と要塞化された野営地があったため、一晩以上滞在した。桜井、生駒、神戸、加古川、相生、倉敷、尾道、東広島の村々は規模が小さく、一泊しかしなかった。

緊急を要する場合は、護衛など最小限の従者を伴って船で移動したという。船は和歌山から出航し、徳島、高松、川之江、東予、松山を経由し、広島で上陸した。日程は陸路の6分の1に短縮できたという。

豊田湖畔の居城を出て、益田市の「要塞化した野営地」に立ち寄り、海岸沿いに4つの村々を経由するルートだった。ほとんどが徒歩で、困難な道のりだった。卑弥呼は小さい頃から大伯父を訪ねる旅を続けていたそうだ。

 

ところで、マクモニーグル氏は当初、卑弥呼について「3番目に大きかった奈良県南部の山間部を拠点とした部族の出身」と透視した。この部分はのちに「跡を継いだ女王のことだった」として訂正している。魏志倭人伝によれば、卑弥呼の死後、新たに男の王が即位したが、国中が不服で、死者1000人を出す動乱が起きた。このため当時13歳だった「宗女台与」を女王とし、乱はおさまったという。

透視が正しければ、台与は奈良南部の出身ということになる。マクモニーグル氏はほかの透視で、後継女王は「卑弥呼の弟の娘」とも言っている。卑弥呼の8歳下の弟は、奈良の部族の女性と結婚し、台与をもうけたのだろうか。

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