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邪馬台国発見 第8部「冬の居城と金印」

第8部では、卑弥呼の「冬の居城」と、魏の皇帝から授かった金印の行方が考察される

透視結果

★卑弥呼の「冬の居城」は山口県下関市豊田町の豊田湖畔にあった。上部が平らな小山の上に建物群が広がり、砦のようになっていた。

★卑弥呼が女王になってからも山口に帰った理由のひとつは「交易」だった。女王となった卑弥呼は外交を重視した。西暦238年(239年?)に初めての外交団を魏に送った。外交団に同行した卑弥呼の特使もまた女性だった。

★マクモニーグル氏が「金印のある場所」として透視したのは福岡市博物館。しかし、そこにあったのは「漢委奴国王」の刻印のある金印。「親魏倭王」の刻印があるはずの卑弥呼の金印ではなかった。

 

著書『謎の邪馬台国を発見』によれば、卑弥呼の居城に関する透視は、3回目の依頼のうちの1項目である。これに対しマクモニーグル氏は、卑弥呼は「夏と冬で別々の場所に居住していた」と透視し、それぞれの位置を地図で示した。

調査チームは、地図をもとに2つの居城のあった場所を探した。その結果、「冬の居城」の位置は、山口県下関市の豊田湖畔であることが分かった。

透視によると、居城は背丈の2倍はある木製の塀で囲まれ、塀の内側は見張りが歩けるように土が盛られていた。見張りはランタンを持ち、弓と槍で武装していた。

『謎の邪馬台国を発見』の著者は2008年正月、豊田湖畔の調査に訪れ、「冬の居城」があったと透視された場所で、山頂部が平たんな台地を見つけている。動画の中で「古墳が崩落したような痕跡」を見つけたとしているのは、この時のことのようだ。

くぼみの中からは土器の欠片も見つかったが、著者はこれらの痕跡について「古代のものかどうかはわからない。単なる後生の井戸かもしれない」と断定を避け、「専門家も交えた、さらなる追加調査が必要だろう」と締めくくっている。

これに先立つ2007年秋、マクモニーグル氏は「冬の居城」の現地調査に同行している。その帰り道、調査チームは彼を沢江(長門市三隅下)にある、海を見渡せる小高い丘に案内した。そこには天神様を祀る小さな祠(ほこら)があった。偶然訪れたその丘をマクモニーグル氏は「卑弥呼が祭祀を行った場所」だと言い、周囲を驚かせた。

マクモニーグル氏の透視結果に興味を持った山口県在住の方が、この丘で撮った写真をブログで公開しておられる。ごく普通の田舎の風景。小さな祠(ほこら)に石が祀られており、「菅原道真が太宰府へ左遷される途中、腰掛けた石である」旨の案内板があるそうだ。

菅原公は学問の神「天神様」として知られる。余談だが、各地にある菅原公を御祭神とする古い神社のうち、いくらかは本来、天皇家の皇祖天神を祀っていたのではないかと思う。いつからか「天神」が菅原公を指すようになり、後世の人が取り違えてしまった可能性はある。菅原公が左遷された太宰府は、安本美典氏が「高天原」のあった場所と比定する福岡県朝倉市から約20キロ、車で30分ほどの距離にある。

 

失敗に終わった「金印探し」のくだりは、マクモニーグル氏による透視の限界を示すもので、興味深い。

女王になってからの卑弥呼は外交を重視した。もともと彼女の出身部族は、朝鮮半島南部も一部領有する偉大な海の民だった。卑弥呼が冬に「里帰り」したのは、冬の居城の快適さもさることながら、出身部族が所有する海外領地との通商、情報伝達が主な目的だったという。

魏志倭人伝には、卑弥呼が「景初2年(238年)、魏に難升米らを遣わした」との記述がある。「親魏倭王」の金印はこのときに下賜されたものだ。『邪馬台国発見 後編』では、調査チームが「卑弥呼の特使」について透視を依頼したところ、マクモニーグル氏から予想外の回答があったことが紹介されている。

それによると、特使は「22~25歳ぐらいの女性」だったという。彼女は卑弥呼の個人的な相談相手で、「法の代理人」でもあった。卑弥呼の代弁者としての権限を持っていた。卑弥呼が交渉する相手の情報を事前に入手し、報告していた。

彼女は持ち前の美しさと知性から、幼いころに卑弥呼自身によって選ばれ、卑弥呼の居館内に住んだ。卑弥呼から与えられた仕事をこなし、中国語や周辺国の文化を学び、教養を身につけていった。暗号や隠し文章、毒物に関する知識も習得していたという。

魏志倭人伝には、卑弥呼の食事の世話をし、卑弥呼の言葉を人々に伝えるために宮殿に出入りしていた人物が登場する。「卑弥呼の代弁者」とも言える存在だが、倭人伝はその人物は男性だったと伝えている。

透視では、特使の女性が「個人の指輪か印」を携えているのが見えたという。厳重な警備に守られながら、多くの旅をした人物で、中国へ行ったのは1回か2回。旅には兵士とcourtesansが随行したという。 courtesansとは、王侯貴族らを相手にする高級娼婦のことらしい。著者は、魏志倭人伝のいう「生口」との関連を指摘している。彼女自身、男にも女にも「喜びを与える術」を身につけていた。

魏の皇帝は彼女を気に入り、宮廷内で勉学を行うことを許した。彼女は卑弥呼の特使であると同時にスパイでもあった。マクモニーグル氏によれば、その瞳は「暗闇のように暗く、読むことは困難」だったという。なんともミステリアスな存在である。

 

透視はまだ続く。魏に使節を送った後、今度は魏の使節が倭国を訪れた。卑弥呼が王位についてから8~9年後、最大でも15年以内のことだという。マクモニーグル氏は、中国から朝鮮半島のオンジン(甕津)、 ワンド(莞島) 、プサン(釜山)などを経て九州に上陸、そこから山口または奈良に至るルートも透視している。

魏志倭人伝も、魏から倭国への行き方を紹介している。邪馬台国の場所をめぐって論争を呼んでいる有名な部分だ。

最初に出て来る地名は帯方郡。中国が朝鮮半島中西部に置いていた拠点だが、具体的な場所はいまだ特定されていない。韓国のソウル周辺が有力とされるが、マクモニーグル氏の透視では38度線の北に位置するオンジン(甕津)が該当するようだ。

倭人伝では、 帯方郡の次に狗邪韓国(こやかんこく)が出て来る。 狗邪韓国は3世紀ごろの弁韓12国のうちの一つ。狗邪は伽耶(かや)、 加羅(から) と同義と考えられている。狗邪韓国は現在の韓国慶尚南道に属する金海、釜山の辺りにあったとされる。マクモニーグル氏の透視でも、倭国への経由地としてプサン(釜山)が挙げられている。

倭人伝では、狗邪韓国のあと、順に対馬国(長崎県対馬市) 、一支国(長崎県壱岐市) 、末廬国(松浦郡=佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県糸島市)、奴国(儺県=福岡市)、不弥国(福岡県宇美町)と続くが、マクモニーグル氏の透視では、プサンを出た使節団は玄界灘を越えて福岡へ渡る。

マクモニーグル氏が挙げたのは主要な経由地のみで、この他にも多数の中継地点があったという。使節団は各所で最低2~3日は滞在するよう求められた。通常、中国の宮殿から山口の「冬の居城」までは約30日、奈良の「夏の居城」までは約40日かかるが、多くの場合、これ以上の日数がかかったそうだ。

福岡から先は主に陸路を使ったようだ。広島~奈良間は、卑弥呼が往来したのと同じルートが使われている。魏の使節が「冬の居城」へ行く場合も、卑弥呼と同じく広島から北上するルートをたどった。こちらは時期や季節により複数の経路があったという。

魏の使者はカゴに乗り、本国から連れてきた奴隷に担がせて移動した。倭人はこれを見て、高貴な人をカゴで担ぐ移動手段を採り入れたそうだ。マクモニーグル氏によれば、倭人にとってはさほど困難な道のりではなかったが、当時の中国人、とりわけ身分の高い魏の使者にとっては過酷な旅だったという。

魏志倭人伝は、帯方郡から不弥国までの詳細な位置関係と距離(里数)を記していながら、その直後の投馬国と邪馬台国の記述は、急にあいまいになる。「南、投馬国に至る。水行二十日」「南、邪馬台国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月」といった具合だ。

普通に読めば、不弥国の南に投馬国があり、さらに南に邪馬台国があるようだ。しかし、福岡県宇美町とされる不弥国から、南へそれだけの日数を進めば、九州を抜けて海に出てしまう。このため、邪馬台国畿内説では「南」を「東」に読み替えてきた。古代の中国人は日本列島が九州から南に続いていると勘違いしていたため、畿内が九州の「南」にあると誤解してしまったのだと。

ところが、マクモニーグル氏の透視が正しければ、魏の使節は実際に邪馬台国まで行っていたことになる。それなのに倭人伝が邪馬台国のある方角を間違えたのは、なぜなのか?

邪馬台国発見』の著者はこれに関し、「安全保障上の理由から卑弥呼側がわざと間違った情報を与えていたのではないか」と推理している。倭人伝が「倭国には馬はいない」と誤って伝えているのも、重要な軍備だった馬の存在を隠していたからだろうという。興味深い指摘である。

一方で、マクモニーグル氏が透視したのが、あくまで「魏の使節団」であることも見落としてはならないと思う。

そもそも魏志倭人伝の基になっているのは、帯方郡の役人が本国に提出した報告書であろうと思われるが、倭人伝にははっきり「郡使は常に伊都国(福岡県糸島市)に留まった」と書いてある。 伊都国へは「到る」、それ以外へは「至る」と書き分けているのも、伊都国が目的地だからだろう。本国からの全権団と異なり、出先機関である帯方郡の役人は北部九州に留め置かれたのである。そこから先の国々の情報は、結局のところ「伝聞」でしか知り得なかったのだ。

ただし、ここで気になる点が一つある。それは邪馬台国に至る日数である。マクモニーグル氏は、中国の宮殿から奈良の「夏の居城」まで約40日かかったと透視している。これに対し魏志倭人伝の記述は、「水行十日、陸行一月」である。10日と1カ月を足せば「約40日」になる。これは偶然の一致だろうか?(マクモニーグル氏が魏志倭人伝の記述を知っていたという可能性はこの際、除く)

ひょっとすると、「水行十日、陸行一月」は不弥国や投馬国からの日数ではなく、魏の都・洛陽からの日数なのではないか。そして倭人伝中、邪馬台国に関する記述(居城の描写を含む)は、帯方郡の役人ではなく、魏の使節団が持ち帰った情報に依っているのではないだろうか。

洛陽を出た使節団は、煙台(または甕津)から海路で10日ほど南下したはずだ。おそらくそれぐらいで福岡に至る。そこから陸路1カ月も行けば奈良にたどり着くだろう。不弥国までの書き方と法則が変わっていることも、基になった資料が違うなら説明がつく。魏の使節は「洛陽から見た邪馬台国の方角(南)と日数(水行十日、陸行一月)」を記録に残したのだろう。

邪馬台国と並んで投馬国が特記された理由は分からないが、魏の使節にとってそれだけの関心対象だったのだと思われる。人口は「五万余戸」で、邪馬台国の「七万余戸」に次ぐ第2の大国。投馬国へは「水行二十日」と書かれているから、使節が実際に行った可能性もある。

それでは、投馬国とはどこだろうか。

女王国と友好関係にあり、邪馬台国と比肩する大国とすれば、まず思い浮かぶのは出雲だ。福岡県から東へ日本海沿岸を10日も進めば、島根県に到達し、「水行二十日」の記述と合致する。「投馬」の発音は「いずも」とすんなり結びつかない気もするが、中国語の古代の音とは似ているというもある。

人口はどうか。マクモニーグル氏が透視で示した、卑弥呼が女王になる前の勢力図(第5部参照)を見ると、畿内に次ぐ2番目の勢力は北陸の部族だったとある。その後、出雲国が力をつけて追い抜いたか、あるいは北陸まで勢力を伸ばし、部族ごとのみ込んだ可能性もあるだろう。

他方、専門家によれば、「投」の草書体は「殺」のそれと同じ字に見えるそうで、投馬が殺馬(さつま)の誤写である可能性も捨てきれない。

マクモニーグル氏によれば、卑弥呼の晩年、狗奴国は九州の東南部を占領し、薩摩半島の鹿児島市付近に拠点を置いた。女王国の首都が邪馬台国にあり、それに対抗する狗奴国の首都が投(殺)馬国にあったとすれば、この2国を特別に記録に残した理由もうなずける。

とはいえ、卑弥呼と敵対していた狗奴国の領域に魏の使節が入れたとは考えにくい。投馬国と狗奴国の関係に触れていないのも不自然だ。そもそも南九州に邪馬台国と並ぶ大国があったとは思えない。やはり投馬国は出雲だった可能性の方が高いように思える。

投馬国と邪馬台国に触れたあと、倭人伝は女王国に属する21カ国の国名を列挙し、「其南有狗奴国(その南に狗奴国あり)」と記す。「その」は「女王国の境界」を指す。「至る」でも「到る」でもなく、「有る」とだけ記し、距離や日数は書かれていない。21カ国についても「 遠く離れていて、戸数や道順、距離はつまびらかでない」と書いている。(余談だが、21カ国には四国の国名も含まれているように思う。伊邪国=伊予国、対蘇国=土佐国、蘇奴国=讃岐国)

帯方郡の役人は伊都国に滞在した。北部九州にある諸国の情報に通じていたのは当然だ。そして、その先の国々については「詳しく知らない」と正直に告白しているのである。北部九州の情報と、それ以外の情報。明確に分けられた2つの情報の間にある投馬国と邪馬台国は、後から挿入された別ソースに基づく記述と考えるべきだろう。

 

魏志倭人伝の記述はさまざまな文献や伝聞の寄せ集めで、そこには詳細な情報もあれば、おおざっぱな情報もある。新しいデータもあれば、古いデータもあるのだろう。

想像するに、帯方郡の役人が記録した地理データは、卑弥呼が女王に擁立される前の古い情報だったのだろう。そのため、首都のある邪馬台国の情報が乏しく、倭人伝の編者(陳寿)は別の記録によって追補する必要に迫られた。その際、帯方郡から不弥国までの道順のすぐ後に、魏の使節が記録した投馬国と邪馬台国の最新情報を挿入したため、混乱を招く結果となったのではないか。

「女王国」についても同じことが言えよう。例えば、倭人伝は「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」と記している。しかし、マクモニーグル氏の透視では、邪馬台国を中心とする連合王国(女王国)は、末期には南九州などを狗奴国に奪われたものの、西日本のほぼ全域を版図におさめ、その東には陸続きで東国が広がっていたはずだ。海を挟んで東の国など、もとより存在しない。

そこでマクモニーグル氏が示した、卑弥呼が女王になる直前の勢力図(第5部参照)を見てみると、九州・中国地方に「女性指導者のもとに連合した44の南方部族」がいたと書かれている。この部族連合の指導者もまた女性だったのだ。

卑弥呼の前にも「女王国」はあり、それは九州と中国の部族連合だった。おそらくは伊都国を中心としたヤマト部族の諸国だろう。倭人伝はこの「女王国」が九州にあると認識していたのではないか。九州の東には確かに海があり、海の東には「倭種」の部族がいた。倭人伝には、卑弥呼が女王になる前の古い情報が紛れ込んでいるように思えてならない。

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