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その後の邪馬台国 ライバル「狗奴国」の正体

「ヤマト」には二つの部族が含まれている。一方は南の島から日本に新しい定住農法のアイデアと米の生産方法、風・雨・日の出・日没への崇拝に起因する精霊信仰を持ち込んだ血統。もう一方はモンゴル高原南西の最果てが起源の、日本に武士道の基になる考えを持ち込んだ血統だ。(ジョー・マクモニーグル)

卑弥呼が統治し、平和と繁栄を享受していた邪馬台国だが、再び混乱の時代を迎えることになる。魏志倭人伝に記された「狗奴国」との戦いである。晩年の卑弥呼を苦しめた狗奴国とは、一体どんな勢力だったのだろうか?

 

DVDや刊行本では触れられていないが、電子書籍『邪馬台国発見 後編』によると、マクモニーグル氏は狗奴国(kingdom of Kuna)についても詳細な透視を行っていた。

それによると狗奴国とは、卑弥呼が奈良で統治を始めるすぐ前に存在した国だという。その中核となった部族は、九州の南方1200~1500マイル、日本と東南アジアの中間に位置する中国沿岸の島をルーツに持つという。マクモニーグル氏に地図を見せると、「台湾よりは海南島の方が近いように感じる」と答えたそうだ。海南島は文身(いれずみ)の習俗のあった地域だ。

ヤマト部族とは九州上陸前から敵対しており、奄美大島で争ったこともあったそうだ。まさに「宿敵」である。その後、畿内地域に入植し、卑弥呼が統治するすぐ前まで支配していたという。マクモニーグル氏の透視で、「卑弥呼の時代よりも古く、5人が埋葬されている」とされた奈良の箸墓古墳は、ひょっとしたら狗奴国の王墓だったのかもしれない。

狗奴国とはつまり、初期ヤマト連合と対立していた「畿内勢力」のことだった。ヤマト部族とは日本本土到達以前からのライバル関係だったわけで、長門の王だった卑弥呼の父が畿内勢力のことを「よく知っていた」というのも、魏志倭人伝が卑弥呼と狗奴国王が「もとより和せず」と書いたことも、すんなり理解できる。

畿内の狗奴国は当初、初期ヤマト連合の影響力の弱かった列島南西部への進出を企てたものの、うまく行かなかった。南西部の人々は彼らに敬意を払わなかった。それは「契約に基づく支配」を重んじ、往来の自由を保障するヤマト部族の方を尊敬していたからだという。南西部をめぐる争いは、初期ヤマト連合と畿内勢力の双方に多大な損失を与え、休戦状態に落ち着いていった。

やがて倭国大乱が終わり、卑弥呼を「共通の女王」として迎え入れてからは、畿内の狗奴国は和平派と抗戦派に分裂したようだ。最初は5~6人の有力な武将がいたが、卑弥呼の時代には1人が他を圧倒。この武将(倭人伝のいう卑弥弓呼か狗古智卑狗だろう)が主導して、卑弥呼の率いる連合王国に攻撃を仕掛けた。

卑弥呼の晩年、狗奴系の抵抗勢力は九州の東南部を占領。かつて卑弥呼の父方の伯父が統治していた鹿児島に本拠を置き、卑弥呼の王国に属していた四国や広島の領地を奪い取った。こうして狗奴は列島南西部を支配する強国として復活した。畿内にいた反ヤマト勢力が、列島南西部へと追われ、今度は南から連合王国を脅かす存在になったのだ。古代日本の勢力図は、現代人が考える以上に流動的で、ダイナミックだった。

狗奴(くな)は、おそらくクマ=熊族のことだろう。熊野(三重県、広島県)や球磨(熊本県)などの地名は、この部族に関係していると考えられる。畿内にいた熊族は、卑弥呼の女王擁立をめぐる内部分裂を経て各地へ分散した。宮崎市には箸墓古墳を2分の1のスケールで再現したとみられる生目(いきめ)第1号墳があるそうだが、これも熊族が遺したものかもしれない。

いよいよマクモニーグルが初代天皇を透視する

さて、狗奴国による四国占領は卑弥呼の怒りを買い、全面戦争の引き金を引いた。卑弥呼の周りには戦争を望まない意見もあったが、卑弥呼自身が強い意志で戦いを遂行したという。戦争は10~12年続き、そのさなかに卑弥呼は死去した。

果たして卑弥呼亡き後の邪馬台国は、狗奴国との戦いに勝利したのだろうか? 

邪馬台国はその後も存続し、ヤマト王権、大和朝廷へと発展を遂げたと考えられるが、その具体的なつながりは明らかになっていない。ヤマト王権の成立時期が、ちょうど、中国の歴史書から日本に関する記述が消えていた時期と重なるからだ。マクモニーグル氏は卑弥呼が「天皇家のごく初期の血筋につながっている」と感じたというが、血縁関係そのものを透視したわけではなさそうだ。

ヤマト王権の基礎を築いたのは初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)である。彼の生い立ちを透視すれば、卑弥呼や邪馬台国とのつながりも見えてくるのではないか―。そう考えた調査チームは、卑弥呼に続いて神武天皇の透視をマクモニーグル氏に依頼する。

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