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神武東征 ~記紀神話に見る邪馬台国残党軍との戦い~

マクモニーグル氏の透視プロジェクトは「神武東征」にさしかかる直前で中断している。

したがってここから先は、記紀神話をはじめとする伝承から推測するほかない。

「遠くはるかな地においては、いまだに王のまつりごとの恵みが及んでいない。邑には君が、村には長がいて、たがいに堺を閉じ、攻め合っている」

のちの神武天皇・狭野(さの)皇子は、兄や息子たちを集めた会議で東征への決意を示す。塩土という老臣は、神武に「東に良い地があります。青々とした山が四方を囲んでおります。その地には天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び下った者が居るはずです」と助言していた。

「青々とした山が四方を囲む良き土地」とは奈良平野のことに違いない。かつて卑弥呼が「夏の居城」を構えた邪馬台国の荒廃を、神武たちは聞き知っていたのだ。

ムイジン、ジュジモから神武天皇へ

日本書紀によれば、神武はウガヤフキアエズの第4皇子である。父はニニギの孫であり、ニニギは天照大神の孫。つまり神武は天照大神の子孫ということになる。ただ、マクモニーグル氏の透視では卑弥呼と神武は、ほぼ同時代の人物である。神武を「天照大神(卑弥呼)の孫の孫の子」とするのは無理がある。そもそも卑弥呼に子供はいなかったはずだ。やはり「天照大神=卑弥呼」ではなく、天照大神には卑弥呼以外にもモデルがいると考えた方がよさそうだ。

それでは、マクモニーグル氏の透視で語られたジュジモは、神武天皇と関係があるのだろうか?

透視ではジュジモがいつ、どこで生まれたのかは語られていないが、先に見たように長崎から九州東岸、四国への進出がジュジモの功績であるならば、父ムイジンの一族が九州に上陸する前か、少なくとも長崎にいた時代の生まれであるに違いない。これに対し、神武の生誕地には諸説(高千穂峰の皇子原・狭野神社、高千穂峡の四皇子峰など)あるものの、宮崎県域の生まれと推定される。ジュジモは「長男」だが、神武には五瀬(いつせ)、稲飯(いなひ)、御毛沼(みけぬ)という3人の兄がいた。

 

これらのことから「ジュジモ=神武」とは考えにくい。長崎から九州を横断する形で領地を拡大したジュジモ一族が、新天地の宮崎でさずかった男子が神武だったのではないか。いずれにせよ、騎馬民族の特徴を持つ神武は、ムイジン・ジュジモの直接の後継者と考えるのが自然だろう。


ところで、ジュジモが九州や四国で戦った「盗賊」とは、卑弥呼の連合王国を苦しめた狗奴国のことと考えられる。狗奴国を征伐したジュジモたちを、北部九州に残っていた卑弥呼の出身部族が歓迎したことは想像に難くない。両者が同盟関係、姻戚関係にあったとしても不思議ではないだろう。ジュジモ一族とヤマト部族の間に交流があったのなら、神武や塩土翁がはるか遠い奈良の地の事情を知っていたこともうなずける。

ちなみに、天孫降臨神話で知られるニニギは、天照大神の孫で、神武の曾祖父に当たるが、記紀はその天下った場所を「筑紫日向高千穗」と記す。筑紫は九州、日向は現在の宮崎県で、高千穂は宮崎県北端に位置する高千穂峡と考えられる

 

高千穂峡はシャーマンだった卑弥呼の祖母も訪れていた故地。ニニギの降臨神話は、北部九州にいたヤマト部族の一部が南下した史実を伝えているようにも思えるのだ。神武に助言した塩土翁は実はイザナギの子で、天孫ニニギが地上界で最初に出会った人物とする伝承もある。

ニニギは南九州で地元有力者の娘をみそめて妻とし、山幸彦(ホオリ)と海幸彦(海神ワタツミ)の兄弟が生まれた。海幸彦は隼人の祖といわれる。ホオリの息子ウガヤフキアエズは海幸彦の娘をめとり、神武が生まれる。部族間の融合を示唆するエピソードである。

中国内陸部から渡来したムイジン・ジュジモ一族と、東南アジアを起源とするヤマト部族。神武天皇は、その両方の血統を受け継いでいたのかもしれない。

『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。(wikipediaより)

約束の地 ヤマトへ

宮崎から船出した神武軍は、九州沿岸を北上し、瀬戸内海を東へ向かった。道中、熊族の伝承の残る岡田宮や、狗奴国の支配下にあった広島などに立ち寄っているのは、兵力募集や敵地の情報収集が目的だったのかもしれない。

マクモニーグル氏によると、大阪には卑弥呼の存命中から「巨大な砦」の建設が始まっていたという。狗奴軍の侵攻に備えたものだったのだろう。当時の大阪は生駒山地の手前まで河内潟が広がっていた。大阪湾から潟に入ろうとする者の前には、南から突き出た上町台地(現在の天王寺~大阪城あたり)が、防波堤と城門を兼ねた形で立ちはだかっていた。

 

難関を突破し、河内潟に入った神武軍は、現在の東大阪市付近から上陸し、奈良を目指した。その行く先に待ち受けていたのは豪族の長髄彦(ながすねひこ)。奈良への国境にそびえる生駒山で猛攻撃を受け、神武の兄・五瀬命が負傷する。いったん退却した神武軍は、船で紀伊半島を迂回して熊野(和歌山~三重周辺)に上陸するが、この過程で五瀬命は絶命する。

 

伝説では、苦戦する一行の前に、高倉下(たかくらじ)という人物が現れ、天照大神から授かった神剣を神武に差し出す。さらに、熊野の山中で道に迷った一行を、今度は八咫烏(やたがらす)と呼ばれる「太陽の化身」が案内したという。

このようにして、神武一行は吉野の山を越えて奈良東端に位置する宇陀へとたどり着く。そこは、マクモニーグル氏の透視によって「夏の居城」があったと推定される土地だ。正面からの進軍をあきらめた神武一行は、大きく迂回し、敵の本拠地を背後から奇襲したことになる。

 

迂回ルートについては、和歌山港から紀ノ川(吉野川)を逆上して奈良県葛城地域に進駐したと考える方が合理的、との説もある。その先には神武が即位した橿原の地もあり、確かに一定の説得力を持っている。

マクモニーグル氏の透視では、卑弥呼が亡くなった後の邪馬台国は5大軍閥の支配下にあったという。古代の有力豪族として思い浮かぶのは物部氏、大伴氏、蘇我氏、尾張氏、葛城氏、賀茂(鴨)氏、三輪氏などだろうか。神武の奈良進軍を支援した高倉下は尾張氏、八咫烏は鴨氏の祖といわれる。ちなみに大伴氏の祖は神武東征に九州から随行した武将なので、どの軍閥にも該当しない。

さて、神武が奈良にたどり着いた時、そこにはニギハヤヒと呼ばれる王が君臨していたが、彼は神武が自分と同じ「天孫族」だと知るとあっさり降伏してしまった。そればかりか抵抗を続ける長髄彦を殺してしまったという。

ニギハヤヒは物部氏の祖先とされる神。日本書紀などによれば、天照大神から「十種の神宝」を授かり、天磐船に乗って大阪に上陸。その後、奈良へ移り住み、長髄彦の妹をめとったとされる。​

物部氏は九州にもゆかりがあり、卑弥呼とともに奈良へ移った一族と見ることもできる。あるいは、卑弥呼亡き後の混乱を見かねたヤマト部族が、王国再建のために派遣したのが、ニギハヤヒだったのだろうか。

魏志倭人伝は、卑弥呼が亡くなって台与が女王を継承するまでの期間、邪馬台国はいったん「男王」を立てたと伝えている。ひょっとしたらニギハヤヒこそが倭人伝のいう「男王」だったのかもしれない
(物部氏の伝承では神武東征の時点でニギハヤヒは故人)

ニギハヤヒから国を譲り受けた神武は、奈良の橿原で、「ヤマト」の名を引き継ぐ王、カムヤマトイワレビコ(神日本磐余彦)として即位する。その4年後、奈良平定へ導いた皇祖天神を鳥見山にまつった。新天皇が即位後に行う儀式、大嘗祭(だいじょうさい)の起源である。(2017年4月記)

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