top of page

邪馬台国発見 第4部「卑弥呼の生誕地」

第4部では、透視のターゲットである卑弥呼の生い立ちに迫る

透視結果

★マクモニーグル氏が透視した卑弥呼の顔(イラスト)は、目鼻立ちのくっきりした南方系。

★卑弥呼が生まれる頃、ヤマト部族の同族や支族は西日本一帯に勢力を拡大していた。

★卑弥呼が生まれる直前、卑弥呼の父親は山口県長門を支配する王で、その影響力は北部九州一帯にも及んでいた。

★卑弥呼は山口県長門市で生まれた。生家は質素な高床式住居。

★長門にはヤマト部族の砦があった。砦の近くには祭祀場があった。

★卑弥呼の大伯父は出雲を治めていた。島根県松江市の護国神社(松江城内)がある丘には、卑弥呼の大伯父の居館があった。卑弥呼も松江を訪れた。

 

著書『謎の邪馬台国を発見』によれば、卑弥呼の人となりは、2回目の透視依頼に対する回答である。1回目のターゲットは「卑弥呼の墓の位置」だったが、2回目では

(1)ターゲットに出て来る個人はどのような人物か?シャーマンか?

(2)彼女はどのように見えるか?

(3)彼女はどのような服を着ているか?

を尋ねた。このうち「シャーマンか?」の問いについては先入観を与えかねないもので、著者自身「適切な表現ではなかった」と述懐している。

マクモニーグル氏からの回答は2007年8月に届いた。卑弥呼の容姿を描いたイラストもその中にあった。どことなく沖縄の女性を思わせる風貌である。卑弥呼に関するマクモニーグル氏の透視結果は次の通り。

 

大昔に生きた女性で、とても長生きだった。おそらく71歳~73歳ぐらいまで生きた。41歳~63歳の間が最も美しく力に満ちた時代で、尊敬され影響力があった。 彼女に会う者は、輝きを秘めた鋭い眼差しで常に見つめられている印象を受けた。あまり笑うことはなかった。声は柔らかで優しさを漂わせたが、威厳をこめて話す必要があるときは、相手に質問を許さない断固とした口調だった。 彼女は戦争のときに人々の先導を要求されることもあった。普段はゆったりした服に立派な帯を締めていたが、戦いが始まったときは弓矢を持ち、裾をたくし上げた男のような姿で戦場に臨んだ。

居城には神殿があり、彼女の住居と直結していた。神殿では宗教的・霊的な儀式が執り行われていた。彼女は指導者、統治者、神官として、人々の生活に直結する重要な事柄に、宗教儀式を通して助言していた。

子供がいないため、その後継者は非常に早い段階から神殿内で選ばれていた。候補として連れてこられた10~12歳の少女の中から、自分自身で後継者を選んだ。少なくとも5人の少女が選ばれ教育された。

後継者候補から落とされた少女たちは、後継者に選ばれた少女の下について神殿内で働いた。選ばれた少女は20~25歳ぐらいまで教育を受け、後継者となるときが来るまで人々の目から遠ざけられ、神殿に隠された。

後継者選びは何度も繰り返された。後継者としての教育を終えた者は、神殿内でシャーマンの職務を果たし、最年長者がシャーマンの長を務めた。年長者が亡くなると順次、継承順位が繰り上がった。

 

卑弥呼の生い立ちに関する透視は、2007年の来日調査の後も続けられたようだ。『謎の邪馬台国を発見』では、2008年1月に届いた透視結果が詳しく紹介されている。

それによると、卑弥呼が生まれたのは西暦195~205年。祖父と父は狩猟採集民だった。卑弥呼には兄と弟がいたが、兄は若いときに虎狩りの最中に事故死し、8歳下の弟だけになった。

父は長門を治める王で、北部九州一帯に影響力を持っていた。

マクモニーグル氏は、卑弥呼の生まれた家をイラストに描いた。それは高床式住居で、著者は「有力者の屋敷というよりは一般庶民の家」という印象を受けた。屋根には天窓があり、煙がたなびいていた。

卑弥呼が生まれた場所としてマクモニーグル氏が示したのは、現在の長門市日置(へき)、JR山陰本線黄波戸(きわど)駅に近い池の横だった。ここから北西へ14キロほど行った向津具(むかつく)半島には、王屋敷遺跡(長門市油谷)があり、国内で4件しか出土例がない有柄細形銅剣が見つかっている。

卑弥呼の母は17歳ぐらいまでここで暮らしたが、結婚を機に兄がいた萩市の入植地に引っ越した。彼女は有名なシャーマンになっていた。

 

マクモニーグル氏は、一連の透視を通じて「卑弥呼は、後に伝説化され、太陽の女神になった」と感じ取ったという。天皇家の祖先とされる太陽神、天照大神(アマテラス)と卑弥呼の関連性を指摘する意見は、古くからある。

魏志倭人伝は、卑弥呼には夫はおらず、「弟がたすけて国を統治している」と伝えている。マクモニーグル氏の透視でも、卑弥呼には8歳下の弟がいたとされた。卑弥呼が生まれた時には兄もいたが、早くに亡くしているようだ。

一方、天照大神には兄はおらず、弟が2人いたことになっている。神話では、妻イザナミを失ったイザナギが黄泉(よみ)の国から帰還した後、天照大神のほかに、月読(ツクヨミ)と須佐之男(スサノオ)の2神を生んだという。

その後、スサノオは「海の国」を統治するよう命じられるのだが、彼はこれを嫌がり、「妣国根堅州国(亡き母の国であるネノカタス国)に罷らむと欲ふ」とだだをこねる。さらに、馬の生皮を神殿に投げ込むなどの乱暴狼藉を働いたため、憤慨した天照大神は「天の岩戸」へ引きこもってしまう。八百万(やおよろず)の神はスサノオを高天原から追放することを決定。スサノオは出雲へ天下った。

一方、日本書紀は、スサノオが最初に降り立ったのは新羅の国で、「ここにはいたくない」と言って出雲に渡った、という異伝も併記している。新羅とは朝鮮半島のことだろう。日本書紀が完成した720年には、新羅は既に朝鮮半島を統一していた。その前身は辰韓(半島南部の東側)にあった斯蘆(シラ)国とされる。魏書弁辰伝によると、辰韓と弁韓(半島南端)は鉄の産地で、倭人も採掘していた。

あるいは、スサノオが赴任を嫌がった「海の国」とは、ヤマト部族が海外領地として所有していた半島南部の土地だったかもしれない。わがままな末っ子に手を焼いたヤマト部族は、海外赴任人事を撤回し、一族の後見人だった出雲王のもとへスサノオを預けたのだろうか? 

 

それにしても魏志倭人伝に伝わる「卑弥呼を補佐した弟」とは、ずいぶんイメージがかけ離れている。卑弥呼の弟がスサノオのモデルだとしたら、一体どうしてこんな伝承が残ってしまったのだろう。卑弥呼を支えたのはもう一人の弟(月読)のことだろうか。マクモニーグル氏の透視に、弟が1人しか出てこないのはなぜだろうか。疑問は尽きない。

ひょっとしたら「天照大神=卑弥呼」ではないのかもしれない。天照大神のモデルは複数いて、卑弥呼もその1人に過ぎないのではないか。スサノオ追放の神話が、卑弥呼より前の世代のエピソードだと仮定すれば、スサノオとイメージの重なる人物が思い当たる。

マクモニーグル氏の透視で、出雲に君臨していたという卑弥呼の大伯父(父の伯父)である。

彼はなかなかクセのある人物だったようだ。ヤマト部族の指導部(高天原)から朝鮮南部の領地を治めるよう指示されても、頑として聞き入れなかっただろう。卑弥呼は女王になった後も、大伯父のもとに通って相談していたという。連合王国の成立後も出雲が独立国のようにふるまい、大伯父が存在感を示していたことがうかがえる。それだけの人物なら、神話に形跡を残していない方が不自然である。

高天原を追われたスサノオは、出雲で八岐大蛇を退治し、その尾から出てきた神剣を高天原に献上する。治水事業によって斐伊川の氾濫を鎮め、当地でタタラ製鉄を興したことを示唆しているのだろうか。 この神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)などと呼ばれ、のちに皇位継承の正統性を証明する「三種の神器」の一つとなる。

草薙剣がもし鉄の刀だったとしたら、献上を受けた高天原には衝撃が走ったことだろう。出雲は、北部九州と近畿の間に位置する「葦原の中つ国」で、ヤマト部族にとっては軍事上の要衝。強大な軍事力を持つに至った出雲に対し、警戒を強めたことは容易に想像できる。

高天原のタカミムスビはこの後、スサノオの子(または孫)の大国主(オオクニヌシ)に、国を明け渡すよう要求。これに対しオオクニヌシは、立派な神殿を建てて自らを祀ることを条件に国を譲ったとされる。出雲大社のいわれである。

出雲大社は第11代垂仁天皇の時代に創建されたとされる。高さ90メートルを超す巨大な神殿がそびえていたとの説もあるが、マクモニーグル氏は現地視察の際にきっぱり否定。「せいぜいで50メートル止まりだった」と透視したという。現在の本殿は高さ24メートルなので、 50メートルでも倍の大きさだったことになる。

現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。(wikipedia)

特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page