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邪馬台国発見 第2部 「部族の起源」

第2部からは、今回のターゲット「卑弥呼」の透視に入っていく

透視結果

★卑弥呼の生まれた部族の祖先は、中国雲南省まで起源をたどれる。部族の名は「ヤマト」。4枚の花弁を持つ花がシンボル。

★部族はベトナム、台湾、奄美大島を経由し、船で九州に上陸した。

 

月刊『ムー』328号(2008年3月)の記事によると、卑弥呼の部族に関する透視は、3回目の依頼の中に含まれている。

「ターゲットの人物の部族名は何か?」

これに対しマクモニーグル氏から寄せられた回答は「Yamata、Yamato、Yamatayo のどれか」だというものだった。

単行本『謎の邪馬台国を発見』(権藤正勝著)によると、卑弥呼の部族名については、2007年12月に再度透視が行われた。「Yamata」「Yamato」「Yamatayo」と書かれた3つのメモを別々の封筒に入れ、マクモニーグル氏に「ターゲットに最も近いものはどれか」という透視を依頼したのだ。その結果、「Yamato」の可能性が最も高い、との結論が報告された。

「ヤマトというのは、卑弥呼の出身部族の名前であり、卑弥呼が統治した王国の名前でもある。ヤマトというのが一つの船だとすると、その船は多くの者の寄付で作られたように感じる」

マクモニーグル氏はそう語ったという。ヤマト部族は「大和民族」の一つの源流であり、その名前は古代日本の国号である「大和」へと受け継がれていったようだ。

ヤマト部族の象徴は「四つの花弁を持った花」だった。

マクモニーグル氏が透視したそのイメージは、 伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)の 金銅四葉座飾(こんどう・しよう・ざかざり)金具(右、西日本新聞社HPより)とよく似ている。

弥生時代から古墳時代にかけて伊都国の中心地であったと想定される三雲・井原(いわら)遺跡から発見されたものである。

 

透視によると、ヤマト部族の構成員はもともと狩猟民だったが、朝鮮半島南部に住んでいた同族から米作技術がもたらされ、日本各地にコメの生産を広めた。部族の規模は、卑弥呼が統治を開始した当時で3880人。彼女が亡くなった頃には、最初の20倍以上に増えていたという。

『謎の邪馬台国を発見』では、ヤマト部族の来歴も詳しく紹介されている。それによると、部族の起源は紀元前805年の中国までさかのぼれる。

紀元前475年 昆明(中国雲南省)

紀元前385年 ハノイ(ベトナム)

紀元前325年 ハイフォン(同)

紀元前265年 マカオ

紀元前205年 台北

紀元前 55年 沖縄(実際は奄美大島)

西暦   65年 福岡(北部九州)

西暦  125年 長門(山口県)

部族は日本本土に上陸した後も南西諸島の領有を続けていた。移住というよりは勢力圏の拡大といった方が正確かもしれない。長門に住むようになったのは卑弥呼から数えて3世代前のことだという。

電子書籍『邪馬台国発見 後編』によれば、部族の出発点として透視された場所は次の通り。

・中国南東部の最果ての町

・ラオスかベトナムとの国境に近く、現在のハノイの北北西700~750キロ

・大きな湖の北

・昆明から120~125キロ西方の、境界に近い山間部

・丘に囲まれた小さな平たん部にある、昆明より小さめの2番目の町の南西20~25キロ地点

著者によると、そこは昆明から117キロ西にある楚雄(そゆう)市だと考えられる。 現在は中国雲南省の楚雄イ族自治州に属している。イ族は中国、ラオス、ミャンマー、ベトナム、タイに住む少数民族。

著者によると、雲南省は以前から日本文化との共通点が指摘されてきた地域で、高床式住居や精霊信仰、祖先崇拝、焼き畑、鵜飼い、歌垣などの風習がある。神社建築に欠かせない千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)も、かつては雲南省の高床式民家で見られたそうだ。イ族の村には今でも「ピモ」と呼ばれるシャーマンがおり、ハニ族の村の入口には、鳥居と同じように木の門があるという。

 

ところで、魏志倭人伝が参考にした魏略という書物が、興味深い事実を伝えている。その逸文(他の書物に引用されて残った断片)によれば、「倭人は自ら 太伯 の後裔だといった」というのだ。太伯 とは、紀元前12~11世紀の人物で、中国の古代王朝・周の文王の伯父。弟に王位を譲って南方へ下り、呉を建国したと伝えられる。三国志の呉ではなく、「呉越同舟」の故事に残る春秋時代の呉である。

呉は紀元前585~473年頃に上海郊外蘇州市の辺りにあった。しかし、マクモニーグル氏の透視では、卑弥呼の出身部族は紀元前475年頃は昆明にいたとされ、呉が支配した地域に縁はない。

伝承によれば、太伯は南に下った後、母国からの帰還要請を拒み、自ら髪を切り、全身に文身(いれずみ)を施して蛮族の格好をしたとされる。 魏志倭人伝の伝える倭人の習俗と同じである。

倭人伝は 「倭の風俗は儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)の俗に似たり」とも記す。 儋耳、珠崖とは漢の武帝時代に海南島に置かれた2つの郡。「太伯 の後裔」を自称した倭人はヤマト部族ではなく、海南島付近をルーツに持つ、別の部族だったのかもしれない。

 

ヤマト部族は日本本土に上陸する前、奄美大島に住んでいた。その名残りなのか、島の中部には大和村(やまとそん)、大和浜(やまとはま)がある。「高千穂神社」という名の神社もあるが、明治2年の創建というから関係はなさそうだ。

2008年4月の来日調査で、マクモニーグル氏と調査チームは奄美大島を訪れている。透視で見えたのは北東部の笠利町(かさりちょう、現奄美市) にある秋葉神社。その裏の小高い丘の頂上広場が、部族の祭祀場だったという。 そこでは火を使った祭祀が行われていた、とマクモニーグル氏は言う。

その丘は12世紀に築かれた赤木名城(あかぎなぐすく)の跡だった。17世紀に薩摩藩が接収し、秋葉神社などを建てたという。城山はさらに古い時代からの聖地で、地元の伝承ではかつては、そこでノロ(シャーマン)の祭りが行われていたという。

なお、マクモニーグル氏は、ヤマト部族が一時住んだ九州の南の島を「オキナワ」と呼んでいるが、指し示した地図上の位置は鹿児島県に属する奄美大島だった。このため本書でもDVDでも「奄美大島」とし、現地調査も奄美大島で行っている。

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