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邪馬台国発見 第3部「九州上陸」

第3部では、九州に上陸したヤマト部族の足取りを追う

透視結果

★ヤマト部族の最初の上陸地は熊本。ただし、そこには本格的な拠点を作らなかった。

★ヤマト部族が本格的な拠点を築いたのは長崎、佐賀、福岡にまたがる有明海沿岸。

★ヤマト部族は一時期、吉野ヶ里周辺を手中におさめ、拠点を築いていた。

★やがてその勢力は、当時の九州の表玄関だった博多湾にも及び、北九州へと拡大していった。

 

電子書籍『邪馬台国発見 後編』によれば、今回の透視ターゲットは3つ。

(1)福岡における卑弥呼の出身部族(original tribe)の居館(residence)

(2)AD65年ごろの卑弥呼の部族(clan)

(3)卑弥呼の部族が最初に九州島に上陸してから長門までのルート

「ヤマト部族が最初に上陸した土地」としてマクモニーグル氏が指し示したのは、熊本市の市街地だった。しかし、ここでは本格的な拠点は築かなかったという。

熊本市街から南東へ山を越えた場所に山都町(やまとちょう)がある。そこからさらに東へ県境を越えると宮崎県高千穂町にたどり着く。のちに福岡で生まれる卑弥呼の祖母は、祭祀のために高千穂峡までやって来たという。

マクモニーグル氏は2008年4月の来日調査で高千穂峡を訪れている。一帯は太古から続く神聖な場所で、2000年以上の歴史があり、祭祀を行うため数多くの部族から人々が集まったという。神々が集う「天安河原」(あまのやすがわら)とされている場所も、実際にはそうした人々の祭祀場だったようだ。

来日調査では、熊本市郊外の塚原古墳群も視察。古墳の形状は四角(方墳)から始まり、丸(円墳)、キーホール型(前方後円墳)へと進化した、とマクモニーグル氏は感じ取ったという。


『邪馬台国発見 後編』では、ヤマト部族と卑弥呼一族の足取りがより詳しく紹介されている。それによると、部族が熊本の次に上陸したのは、佐賀空港から筑後川を少しさかのぼった付近で、福岡県大川市の対岸。そこから少し南に移動した同県柳川市に最初の入植地を築いた。ここには3~4世代、90~120年にわたって定住したという。


柳川市には現在も大和町(やまとまち)がある。2005年に合併されるまでは山門郡大和町と呼ばれていた。


マクモニーグル氏が地図上にしるしを付けたのは、柳川市大和町の徳益、豊原付近だったそうだ。西鉄天神大牟田線の徳益駅から塩塚駅にかけてのエリアだろうか。グーグルストリートビューで見ると、ごく普通の田園風景が広がっている。

部族はその後、吉野ヶ里へと進出するが、そこにはすでに集落が存在していたと考えられ、武力で制圧した可能性もあるという。

 

ところで、邪馬台国九州説を唱えている安本美典氏は、著書『邪馬台国と卑弥呼の謎』(1987年、潮文庫)で、記紀神話に登場する高天原(たかまがはら)の位置を探求している。その中で安本氏は、神話に登場する地名と、畿内、九州に残る地名を数量的に比較分析した結果、「高天原は北部九州にあった」と推論。具体的には「現在の高木、甘木あたり」にあったのではないか、と指摘している。

高木、甘木は現在の福岡県朝倉市にある。山を背にした内陸地域で、外敵の侵入を防ぎやすい。博多湾と有明海の両方に睨みを利かせるには、理想的な立地である。畿内における奈良盆地、とりわけ三輪山麓の桜井市近辺によく似た環境だ。

朝倉市周辺にはタカミムスビ(高皇産霊尊、高木の神)を祀った「高木神社」が多い。大国主命に出雲国の明け渡しを迫った神であり、「天孫降臨」政策を推進した神だ。高天原の本来のリーダーは天照大神ではなく、タカミムスビだったとする説もある。


想像するに吉野ヶ里を手に入れたヤマト部族は東へ進み、朝倉市を経由して谷沿いに北へ向かったのではないか。そして部族の長老ら一部指導者たちは朝倉に留まり、各地に散らばった同族グループを束ねる「司令本部」を組織した。その場所が高天原(たかまがはら)(=高木+甘木+原)として語り継がれた・・・。


実際、朝倉市内を流れる小石原川(筑後川の支流)は、かつてヤスカワ(夜須川、安川)と呼ばれていた。その河川敷こそが、八百万(やおよろず)の神々が会議を開いたと伝わる「天の安河原」ではなかったか、と安本氏はいう。



この説を裏付けるような遺跡が1990年代初頭、朝倉市の小石原川沿いで発見された。何重もの堀で厳重に守られた「平塚川添遺跡」である。


竪穴式住居跡300、掘立柱建物跡100という大きな集落跡で、内堀に囲まれた中央区画には、祭殿や集会所があったと考えられている。

 

マクモニーグル氏の透視に戻ろう。

卑弥呼の一族は、彼女の「祖母の母の母」と思われる人物が長崎へ嫁いだことに伴って長崎へ移住した。卑弥呼の祖先が大きく発展したのは長崎時代のことだという。

卑弥呼の曾祖母が生まれたのも長崎。その頃には「シャーマンの家系」として有名になっていた。この曾祖母の時代に長崎から福岡へ転居した。


福岡で生まれた卑弥呼の祖母は、新たに同盟を結んだ部族のいる遠賀川下流付近で結婚し、そこで卑弥呼の母が生まれた。マクモニーグル氏は、祖母と母が住んだ村の名前は「おそらくアシヤ」だと透視した。


福岡市から丸1日かけて東へ歩くと福岡県遠賀郡芦屋町がある。マクモニーグル氏が透視に基づいて描いた地図も、この芦屋町にしるしが付いていたそうだ。

ちなみに、芦屋町には「神武天皇社」という神社がある。初代天皇の神武が宮崎から出航して奈良へ向かう途中に立ち寄ったと伝わる岡田宮(おかだぐう)のあった場所とされる。wikipediaで調べると、岡田宮は「かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜に祖先神を祀ったのが始まり」とあった。日本書紀には14代仲哀天皇の時代、朝廷に恭順した崗県主(おかのあがたぬし)熊鰐(くまわに)が、神功皇后を岡田宮へ案内したとの記述もあるそうだ。


卑弥呼の祖母の時代、ヤマト部族と同盟を結んだ部族というのは、この「熊族」のことだろうか。

卑弥呼の母は10歳になるまで芦屋の村に住んだが、朝鮮半島沿岸から来る盗賊の襲撃に悩まされた一族はやがて、さらに東の山口県へと海を渡る。


卑弥呼の母は山口県萩市で、ある戦士と結婚した。彼女の兄(萩の王)に仕えていたその戦士は、のちに長門の王となる。

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