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九州に上陸したムイジン 長男に権力継承

朝鮮半島南部の紛争を解決し、中国皇帝から家族を取り戻したムイジンは日本へ渡る

航海は大荒れだった。ムイジンは4隻の船と長女夫婦を失った。船出から6日目の朝、陸地を発見。58隻の船団で数千人の男女を伴い、上陸した。山々に囲まれた小さな入り江にある、小さな漁村だった。村民たちは突然現れた大船団に驚き、逃げ出してしまったという。

一行が日本に到達したのは、西暦259~269年ごろ。マクモニーグル氏が透視した地図から、上陸地点は長崎、橘湾の牧島がある付近だと思われる。

ムイジン一行が最初に「居留地」を築いた場所は、長崎市田中町の東望山(とうぼうやま)公園に当たる。彼らが十分な領地を獲得するまでに、少なくとも4回、先住民との大きな戦いがあった。狗奴国に属する勢力からも襲撃を受けたという。

 

生活が安定すると、ムイジンは族長の座を長男に譲り渡した。マクモニーグル氏はこの長男を「ジュジモ」と名付けた。ここで物語の主人公はムイジンからジュジモへ変わる。「神武天皇」の透視で最初に浮かんだムイジンは、神武天皇その人ではなかったことになるが、その理由は説明されていない。

ジュジモ、四国平定

父から権力を継承したジュジモは精力的に領土を拡大し、九州の中央部、南部を次々に征服。その2年後には四国を拠点としていた盗賊との戦いに挑んだ。あえて遠回りし、高知の中央辺りから上陸し、盗賊の勢力を東西に2分する戦略を取った。一気に豊後水道へ攻め進むと、きびすを返して東へ進み、四国の南半分を支配下に置いた。その後、北部地域も先住民と協定を結んで統治した。

四国を平定した後、ジュジモは領地の支配を家臣に任せ、長崎に引き上げたという。マクモニーグル氏によれば、彼の父ムイジンは征服した領地の先住民を根絶やしにすることはなく、むしろ部族の一員として迎え入れたそうだ。ジュジモもそうした流儀を受け継いでいただろう。降伏した敵将を臣下として扱い、領地を預けたのではないだろうか。

 

岡山県と愛媛県に「久米郡」という地域がある。久米(来目=くめ)と呼ばれた古代豪族ゆかりの地だが、彼らの祖先は、神武天皇の側近として東征にも参加した大久米(大来目=おおくめ)という人物。大久米は目に黥(いれずみ)をしており、神武のお妃候補を驚かせたと伝えられる。ジュジモに帰順した「盗賊」の武将だったのかもしれない。

邪馬台国「残党軍閥」と決戦へ

ムイジン一行が日本に到達したのは、卑弥呼が亡くなってしばらく後のことだとみられる。西日本全域を支配していた連合王国の権力基盤は揺らぎ、すでに壊滅状態にあった。卑弥呼の晩年には九州南部の敵対勢力から侵攻を受け、四国の大半と広島付近の一部の支配権を奪われた。

 

こうした時代背景から考えて、ジュジモが戦った「盗賊」とは、卑弥呼に敵対していた狗奴国のことだろうと思われる。

一方、マクモニーグル氏は卑弥呼が亡くなった後の邪馬台国の状況も透視していた。それによると、卑弥呼の死後は彼女の「めい」が連合王国を引き継いだという。魏志倭人伝のいう「台与」のことと思われる。しかし、後継女王の支配は形骸化し、奈良盆地から南は5つの大きな軍閥が内部抗争を繰り返す無政府状態に陥っていた。かつて卑弥呼の連合王国に属していた地域も、実質的にこの5大軍閥の支配下にあったという。

ジュジモが四国の支配権を確立してから3年後、奈良南部の1つの軍閥がジュジモの領地に侵攻した。これをきっかけに淡路島と四国の間に位置する鳴門海峡の付近で大きな衝突が起きたというのだが、残念ながらマクモニーグル氏による透視は、ここで終わっている。

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