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邪馬台国発見 第6部「夏の居城」

第6部では、卑弥呼が女王として迎えられた畿内の居城について考察される

透視結果

★卑弥呼の「夏の居城」は、奈良県宇陀市榛原(はいばら)の鳥見(とりみ)山にあった。周囲を柵で強固に守られた高地性集落で、2000人が住んでいた。

★卑弥呼は夏の居城を拠点に、奈良周辺を巡幸していた(魏志倭人伝のいう邪馬台国の範囲?)

★卑弥呼のあと、もう1人の女王があらわれ、鳥見山に住んだ(魏志倭人伝のいう台与?) その女王の墓は奈良県広陵町の巣山古墳。

 

魏志倭人伝は、卑弥呼の宮殿には「高楼があり、厳重な城柵が設けられ、常に兵士が守っている」と描写しているが、マクモニーグル氏の透視でも、「夏の居城」は要塞化されていたようだ。

透視によれば、居城は「住居機能」と「神殿建築」を持ち合わせていた。男女の聖職者、政治家、訪問者、ボディーガード、スタッフらのための宿泊施設もあった。巨大な平屋の建物が1軒あり、その内側に4つの連続した中庭があった。建物の一角には3階建ての高いセクションがあり、反対側の角には2階建ての建物があった。

著書『謎の邪馬台国を発見』によれば、卑弥呼の居城に関する透視は、3回目の依頼のうちの1項目である。これに対しマクモニーグル氏は、卑弥呼は「夏と冬で別々の場所に居住していた」と透視し、それぞれの位置を地図で示した。

マクモニーグル氏によると、「夏の居城」には2000人が住んでいた。「冬の居城」よりずっと規模が大きく、おそらくここが首都だという。調査チームはマクモニーグル氏の書いた地図をもとに、2つの居城のあった場所を探した。このうち「夏の居城」は、奈良県桜井市外山(とび)の鳥見(とみ)山であると推測された。マクモニーグル氏の描いた地図を見ると、確かに耳成山、三輪山との位置関係から、桜井市の鳥見山を指しているようだ。鳥見山の北側にある茶臼山古墳も正確に図示されているのが分かる。

月刊『ムー』328号(2008年3月)によれば、マクモニーグル氏は2007年の来日調査で、「夏の居城」があったとみられる場所を視察している。そこは標高734メートルの小高い山で、中腹には縄文~弥生時代の遺跡がある。頂上近くに展望台があり、「鳥見山公園」として整備されていた。案内した地元のタクシー運転手は「奈良では最も気温の低い場所の一つで、夏は涼しいが、冬の寒さは厳しい」と話した。

「水はどう確保したのだろうか。生活には水が必要なはずだ」。同行した調査チームのメンバーが疑問を口にすると、マクモニーグル氏は「水源は向こうだ。湧き水がある」と言って歩き出す。少し歩いた先に、「勾玉(まがたま)池」と呼ばれる池があった。池の周囲には「降神石」という表示の小さな盤座(いわくら)や石組みがあった。

動画では、マクモニーグル氏が城柵や進入路のあった位置を指し示し、「彼らは大きな木の骨組みの支柱を使ったようだ」などと話す様子が紹介されている。彼は台座のような形の石組みに関心を示し、「とても重要なもののようだ」と指摘。『ムー』の記事によると、「巨石がこのあたりにあるはずだ」といって探し回ったが、それは見つからなかったという。

公園の駐車場で振り返り、全景を見渡したマクモニーグル氏は「透視で見た風景と完全に一致する。この場所で間違いない」と言い切った。

 

ところが、この現地視察には後日談があった。

調査チームが視察した場所は「夏の居城」があったとされた桜井市外山(とび)の鳥見(とみ)山ではなく、宇陀市榛原(はいばら)の鳥見(とりみ)山だったのだ。

タクシーの運転手が二つの山を取り違えて案内したらしい。この間違いは、マクモニーグル氏の透視プロジェクトが月刊誌『ムー』で公表された後、読者がブログで指摘し、発覚したという。

桜井市の鳥見山にも、宇陀市の鳥見山にも、神武天皇が皇祖天神を祀った霊畤(れいじ、まつりのにわ)とされる場所がある。双方とも古くから神聖な場所とされ、しばしば混同されてきたようだ。

間違って宇陀市の鳥見山に案内されたマクモニーグル氏は、しかしながら、こここそが「夏の居城」のあった場所だと断定していた。後になって間違いに気づいた調査チームは最初、マクモニーグル氏の断定は「思い込み」によるものだろう、と考えた。

しかし、宇陀市の鳥見山の公園部分がマクモニーグル氏が透視した「夏の居城」の特徴と合致していることなどから、桜井市の鳥見山ではなく、宇陀市榛原の鳥見山こそが、本当の「夏の居城」ではないかと疑うようになる。

『謎の邪馬台国を発見』の著者は、読者の指摘を受けて、あらためて奈良県桜井市の鳥見山の現地調査を行った。地図の分析から最初に「夏の居城」があったと推定していた場所だ。

しかし、調査では「夏の居城」として機能する大規模建物群を構えられるほどの平たん部は見つからなかった。南部の斜面はなだらかで、建物群を建設できそうな比較的平たんな土地はあったものの、「宇陀市榛原の鳥見(とりみ)山のほうが、『夏の居城』に適している」という印象を受けた。

念のため、「西暦230年ごろ、桜井の鳥見山に何があったか」の透視をマクモニーグル氏に依頼したが、返ってきたイラストには「夏の居城」があったと示すものは何もなく、「この場所には卑弥呼が瞑想や勉強を行うための小さな神殿があった」と記されていた。

この結果を受け、『謎の邪馬台国を発見』の著者は「桜井市の鳥見山は夏の居城ではない」と結論。DVDでも「夏の居城」は「奈良県宇陀市榛原の鳥見山にあった」と説明されている。

なお、透視によれば、「夏の居城」から初瀬川沿いに奈良平野に出た辺りには、大規模な集落が広がっていたという。おそらく、桜井市金屋付近にあったとされる海石榴市(つばいち、椿市)のことだろう。『邪馬台国発見 後編』の筆者は、実際の政治、経済の中心は平野部にあり、「夏の居城」は現在の皇居のような場所ではなかったか、と推測している。

 

卑弥呼は「夏の居城」を拠点に、邪馬台国領内を積極的に「巡幸」して回った。その噂は各地に広まり、拠点施設や水田を視察してまわる女王一行を見学しようと、離れた土地からも人々が集まった。卑弥呼は巡幸からの帰途、すぐには居城に戻らず、水田の広がる桜井の村に滞在したという。

このうち和歌山には海を見下ろせる丘の上に要塞化された野営地があった。大阪では「大きな石組みの要塞」が延々と建設途上にあった。

最大規模の野営地があった奈良市には、三本の進入路がつながる大きな丘の上に高い建物(3階以上あった)があり、命令を発していた。奈良市から桜井市までは直通の道路があり、卑弥呼一行も通ったという。

著者の現地調査によると、和歌山には和歌山城の立つ高台があった。ただ、大阪では「大きな石組み要塞」の遺跡は発見できなかったという。石組みがその後の石山本願寺、大坂城へ引き継がれたとすれば、現在も大阪城(大阪市中央区)の下に眠っているのかもしれない。

奈良市から桜井市に続く道路というのは、おそらく山辺の道(やまのべのみち) のことだろう。奈良県東京事務所の広報ページによると、山辺の道は「歴史に登場する最古の古道」。正確なルートは不明だが、海柘榴市から三輪、景行陵、崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられているそうだ。

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