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邪馬台国発見 第7部「卑弥呼の祭祀場」

第7部では、女王となった卑弥呼の生活が透視される

透視結果

★大神(おおみわ)神社がまつる奈良県三輪山は、卑弥呼の「プライベートな祭祀場」。卑弥呼の出身部族と関係の深い場所と考えられる。

★奈良県桜井市の鳥見(とみ)山は、卑弥呼の「公式の祭祀場」。ここで行う儀式は義務だった。

 

卑弥呼は優秀なシャーマンだった。魏志倭人伝も、卑弥呼が「鬼道につかえ、人々を惑わした」と伝えている。女王として畿内に迎えられてからは、鳥見山で「公務」としての宗教儀式を行い、三輪山では私的に祈りを捧げた。卑弥呼が祭祀を執り行った山は、鳥見山と三輪山だけだったという。

2008年4月に再来日したマクモニーグル氏は、鳥見山のふもとにある等彌(とみ)神社を訪ねている。この神社の御祭神は大日孁貴(オオヒルメノムチ)。天照大神の別名である。物部氏の祖先とされる饒速日命(ニギハヤヒ)を御祭神とするもある。

神職の説明を聞いた一行は、卑弥呼の公式祭祀場があったと思われる鳥見山に登った。標高245メートルの小さな山である。動画に写っている石碑から、まず視察している場所は、山頂の手前にある「白庭」のようだ。

伝承によれば、卑弥呼より後の時代に奈良を治めたニギハヤヒが、大阪から移ってきた場所が「鳥見の白庭山」である。ニギハヤヒは奈良に進駐してきた神武軍に「無血開城」したことで知られる。

調査チーム一行はさらに登って山頂部にたどり着く。神武天皇が即位後に皇祖天神を祀った霊畤( れいじ)の石碑が見える。マクモニーグル氏によれば、そこは卑弥呼が奈良に来る前から続く「神聖な場所」だった。

卑弥呼は瞑想、祈り、祭祀を行うためにそこを訪れた。それは卑弥呼にとって「義務の一つ」だった。山頂部は3000年にわたる祭祀の残骸(土器のかけら、燃えかす、木片など)のために、高く盛り上がった状態にあるという。

透視が正しければ、邪馬台国より前の時代からある聖地を女王になった卑弥呼が祀り、その後に奈良に入ってきたニギハヤヒ、神武天皇も受け継いだ、ということになる。神道の起源は予想以上に奥深い。聖なるリレーの継承は、ヤマトを統治する王の「義務」だったのだ。のちの時代、ニギハヤヒの子孫である物部氏が、仏教の導入に猛反発した事情も分かる気がする。

 

なお、調査チームは当初、この桜井市の鳥見山に「夏の居城」があったと推定していた。しかし、それは間違いで、居城があったのは宇陀市榛原の鳥見(とりみ)山公園であることが判明。マクモニーグル氏に再透視を依頼し、桜井市の鳥見山は居城ではなく、祭祀場だったことが分かった。

ただ、このときマクモニーグル氏が描いた地図を見ると、この動画で視察している鳥見山とは明らかに別の場所である。再透視で見えた場所には、卑弥呼が瞑想や勉強をするための小さな神殿があったといい、卑弥呼の祖先や友人たちが数多く埋葬されていたそうだ。「公式の祭祀場」だったという桜井市の鳥見山とは、性格も違う。

そこは二つの頂上を持つ山(ツインヒル)で、一方に大きな湖があり、もう一方に瞑想のための神殿があった。庭園のように花や植木で整備され、ところどころに「碑文が刻まれた特別な石」が配置されていた。

精霊に満ちあふれた空間で、卑弥呼にとっては誰にも邪魔されることなく、石や木や風の神々と相談できる場所だった。彼女は困難に直面したときや将来を予測するときなどにそこを訪れ、政治の構想を練って下士官に布告したという。

再透視では、桜井市の鳥見山の緯度と経度を指定した上で「西暦230年ごろ、この場所に何があったか」をマクモニーグル氏に尋ねたという。西暦230年というのは、卑弥呼が「夏の居城」で統治を行っていたと思われる年代だそうだ。この問いに対する回答が、マクモニーグル氏の地図である。

グーグルマップで探すと、宇陀市榛原の鳥見山公園の近くで地図に描かれた「大きな湖」に似た地形があった。公園の北側には鳥見山の山頂部があり、確かに「ツインヒル」に見えなくもない。それに山頂部は宇陀市ではなく桜井市に属している。「寺院」と描かれた位置には現在も寺がある。とすると、「瞑想のための神殿」は、卑弥呼の居城の近くにあったのだろうか。

しかし、調査チームは鳥見山(桜井市外山)の緯度と経度、卑弥呼が生きていた年代を指定した上で透視を依頼したはずだ。地図で示されたのが緯度、経度の異なるもう一つの鳥見山付近だとすれば、透視が成功しているとは言い難い。よく調べてみると、マクモニーグル氏が山頂部にあると透視した湖は存在せず、鳥見山公園に近い室生湖も1974年にできたダム湖だった。

何らかの要因で、透視に混乱が生じているようだ。

 

鳥見山の現地調査を終えたマクモニーグル氏は、三輪山麓の大神(おおみわ)神社も訪れている。大神神社は日本最古の神社の一つ。本殿がなく、拝殿の奥にそびえる三輪山そのものを御神体として祀っていることで知られる。御祭神は大物主 (オオモノヌシ)の大神。

wikipediaによると、神武東征以前から、纏向(まきむく)一帯に勢力を持った磯城彦(しきひこ)によって代々、三輪山で磐座(いわくら)祭祀が営まれていたという。磯城彦の実態は分かっていないが、「磯城」は現在の奈良県磯城郡に桜井市、天理市の一部を加えた古代ヤマトの中心地域で、「彦」はその長官を指す。神武東征神話には、兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の兄弟が登場する。兄は神武軍に抗戦したが、弟は降伏して後に磯城県主(しきのあがたぬし)に任命された。

マクモニーグル氏の透視では、三輪山は卑弥呼の「プライベートな祭祀場」で、彼女の出身部族と関係が深いという。その三輪山を代々祀ってきたという磯城の一族とはいったい何者だろうか。北部九州から移り住んだヤマト部族の末裔か、あるいは出雲の国を明け渡した大国主神(オオクニヌシ)の子孫だったのかもしれない。

古事記によれば、オオクニヌシとともに出雲を建国した少彦名(スクナビコナ)神が常世(とこよ)の国へ去り、オオクニヌシが「これからどうやって国を造っていけばよいのか」と思い悩んでいたとき、海の向こうから光り輝く神が現れ、「吾をば倭の青垣の東の山(=三輪山)の上に拝き奉れ 」と啓示した。

ちなみに日本書紀では、 オオクニヌシが神に素性を問うと、「吾はこれ、汝が幸魂(さきたま)奇魂(くしたま)なり」と答えたという。幸魂奇魂は和魂(にぎみたま)の一種で、幸運や奇跡をもたらす神の霊魂。つまり、「三輪山の神」(=オオモノヌシ)は、オオクニヌシに対して「自分はあなたの分身である」と告げたことになる。ここから、オオモノヌシとオオクニヌシは同一神であるという考え方が定着したのだろう。

個人的な印象では、オオモノヌシはもともと三輪山周辺を統治していた豪族で、オオクニヌシはその子孫ではないかと思う。何らかの事情でオオクニヌシは出雲へ赴き、旅の途中でスクナビコナと出会い、協力して国を築いた。古事記が伝える「因幡の白兎」の伝説は、オオクニヌシとスクナビコナの出会いを示唆しているようにも思える。

やがて共同創業者のスクナビコナが亡くなり、途方にくれたオオクニニシは神の啓示を受けて、先祖であるオオモノヌシを故郷の霊山にまつった。あるいはこの時点で里帰りをしたのかもしれない。

三輪山の山中には神霊が鎮まる岩(磐座)が点在している。神社の古い縁起書には、頂上の磐座に「大物主大神」が、中腹の磐座には「大己貴(オホナムチ=大国主の別名)神」が、ふもとの磐座には「少彦名神」が鎮まる、と記されているそうだ。

伝承によれば、オオクニヌシは出雲でスサノオの娘(スセリ姫)と恋に落ち、駆け落ちを経て婚姻を許された。スサノオの義理の息子ということになるが、子孫とも言われる。

スサノオは西から島根に来て、現地の娘(クシイナダ姫)に恋をして、この地に定住した。オオクニヌシは東から来て、スサノオの娘に恋をした。因縁めいた話である。

多くの妻をめとったことでも知られ、子供は奈良・葛城の高鴨神社や長野・諏訪大社の祭神となっている。賀茂氏、大神氏の祖とされる。

オオクニヌシは高天原の求めに応じて出雲国を譲り、出雲大社にまつられている。

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